最初にお断り
綺麗で力ある文章を書く労力は博論という呪いに昇華してしまったので、ここに記すのは吸い殻である。 記載されていることはすべて個人の偏見であり、リソースに乏しく、N=1の感想であり、チラシの裏書きだと捉えてほしい。 特に構成を考えているわけではなく、ダラダラと長い学生研究生活の中で考えたことを、ダラダラと書き連ねることにする。 これは研究も同じで、一部の英才を除き、日々をダラダラと前進していく中で、綺麗な構図になったものが偶然論文に昇華するのである。 ただ、世の中には綺麗な研究体験記を仕立て上げるとても偉い人たちがいるので、そのようなものを見たければ“Awesome CS-Ja PhD Life”を漁ってほしい。
侵食
方方で「日常が仕事に侵食される」という言い回しを聞いてきたが、青い服の友人曰く、我々は逆の立場であり、「日常が仕事を侵食している」のだという。 明言しておくが、研究活動を生活から切り離せる、その方が望ましいという意見を否定する気はなく、むしろ好ましいと思う。 一方、博士課程を終えたばかりの同士の多くは、月100時間超えの残業体制を5年6年と続けた超人であり、これからも続ける人が多く、そこに金銭のインセンティブはあまりなく、日常が仕事を侵食していなければ到底できることではない。
お勧めの本
オルガ・トカルチュクというポーランドの作家が書いた「逃亡派」という本は、旅・人体に纏わる短いエッセイ群をシャッフルして提示する。 パトリク・オウジェドニークというチェコの作家が書いた「エウロペアナ」という本は、ヨーロッパの20世紀観をシニカルな論調でシャッフルして提示する。 ハリ・クンズルというイギリスの作家が書いた「民のいない神」という本は、砂漠にそびえる巨岩に纏わる逸話をシャッフルして提示する。 クリストファー・プリーストというイギリスの作家が書いた「夢幻諸島から」という本は、時間勾配による歪みのせいで精緻な地図が作成できない世界の出来事を、シャッフルして提示する。 一見、要素をシャッフルして提示するという行為は乱雑なように思える。 反対に、要素を時系列に運ぶ、もしくは系統立てて提示するというのは、力あるストーリーを構築するのに"王道"である。 ただ、上記の本では著者が明確な狙いをもって要素をシャッフルしてくれたおかげで、“外道"の忘れがたい読書体験に遭遇することになった。 原研哉という日本のデザイン家が書いた「デザインのデザイン」という本には、「デザインは情報の建築であり、その建築は情報の受け手の脳の中に立てられるものである」と記されている。 物語を伝えるということは、相手の頭の中に何があるかを想像しながら、要素を文章、図、表、映像、声などを使って展開して、相手の頭の中を望ましい状態に遷移させるプランニングである。 要素を順序よく提示すると、受け手は見たことのある様式、慣れている様式なので、ストーリーを勝手に想像・創造・補完してくれる。 その上で少し工夫して、たとえば意図をもって"シャッフル"したりすると、相手に"外道"の良い印象を与えられるかもしれない。 そのような見方を得てから論文執筆も学会発表も行うのが楽になった。
頼りになるもの
業績を積みましょう。 たくさんあると、いざというときにあなたを守ってくれます。
通知日
博士課程の中で最も心臓に悪い日のひとつは、学会に出した論文が採択されるかどうかが通知される日である。 通知が届くまでその日は仕事が手につかず、頻繁にメールボックスを確認して、しまいにはTwitterやRedditで結果が出ていないかを検索し始め、駄目だった時にまた頑張れるかを自問して憂鬱になる。 指定された日のうちに結果が出ればまだ良いが、大きな学会だと結果が出るのが遅れることもある。 ようやく結果が出て、リジェクトの報せを目にしたときの感情は言うまでもない。 アクセプトの通知が来たとしても既に待ちくたびれていて、感情が擦り切れていることが多い。 共著者に連絡を入れ、ホームページのニュース欄を更新して、しばらくして感情が回復した後、Twitterに"Happy to share that…“と朗報を報告する。 採択をもらった翌日は爽やかな気分である。
Twitterの有名人
無視して良い。
簡易食料
りんごの皮を向いて薄切りにし、耐熱用のどんぶりに入れる。 水を大さじ1杯、砂糖を小さじ4杯、ポッカレモンを小さじ1杯入れて、電子レンジで3分温めることを2回繰り返すと、りんごのコンフォートのできあがり。 訳ありりんごを使えば安上がり。
始まり方
修士論文の発表を終えたのが2020年の2月で、新型コロナウイルスの足音が聞こえてきたのが2月で、目黒の家に引っ越して一人暮らしを始めたのが3月で、博士課程を始めたのが4月で、緊急事態宣言が出たのが4月で、それから2ヶ月間は誰とも会わなかった。 大学に行く習慣がなくなり、目黒の家に一人でいる時間が大半を占め、Amazon Echoによく天気を尋ね、たまに自然公園へと散歩した。 3年後、「それは寂しかったですね」と言われた。 そうだったのだと思う。 返す言葉をもたなかった。
矛盾
研究者とやらは、若いうちに地に足をつけて、じっくり集中して大きなことに挑戦することが望ましいと皆思っているが、アカデミアでパーマネントの職を手に入れるのは難しいらしい。 とはいえ、早いうちからずっと同じ場所に居続けて定形の経験を積むだけでは、その場所でうまくやる方法に最適化されてしまう。 むしろ一箇所に長く留まり続けるキャリアには不安を覚える。 短期的な意味では業績は積めないかもしれないが、慣れない土地や環境での試行錯誤はそれなりに意味があるとされ、実際、学振PDの規定では所属先を学位取得前後で変更する必要がある。 「年を重ねるとどんどん動きにくくなっていく」と多くの先輩研究者は口を揃えて助言する。 ただ、頻繁に拠点を変えていては、じっくり大きな事に取り組むのは難しそうである。
定期検査
ネット上には鬱病診断の簡易的なチェックリストがある。 定期的に検査すると引っかかることも多い。
旅人属性
研究者は旅人属性と相性が良く、学会等で国内外の様々な場所を訪問することになる。 そんなときカメラがあると一人で街を歩く良い口実になる。 モンベルのトレッキングパンツは旅人に優れたアイテムで、軽く、風を通さず、汚れを払い落とすことができ、洗濯後にすぐ乾く。 国境をまたぐときに確認すべきことは、通貨、入国にESTAなどの手続きが必要かどうか、天気、電源プラグの種類、チップ文化の有無、水道水が飲めるかどうか、トイレの待遇。 小銭は最低限あった方が良く、長くいるなら洗濯事情も調べた方が良い。 折りたたみスリッパをもっていくと、フライトや土足文化の国で便利である。 コップがあると便利だとも聞く。 慣れてくるとPC、カメラ込みでバックパック1つで6泊程度はできるようになる。 旅が好きな人はぜひ「逃亡派」を読んでほしい。
差別化
パリに住んでいた頃、研究とは別枠でプレゼンをよく褒められた。 人より少し目立つためには、基本的なセオリーを完璧に抑えた上で、“シャッフル"を程よく入れると効果的なようである。 聴講者の大半は、これまでの研究生活で大量のプレゼンを消費しており、それらと差別化を図らなければ印象には残らない。 内容のシャッフルはコツがいるが、簡単な工夫から始めれば良く、背景色を変えたり、フォントを変えたり。 小さい工夫の積み重ねが「アイツのプレゼン覚えてる」という良い結果をもたらす。 全員を刺すことを考えるのではなく、聴衆の2-3人に深い印象を与えることができれば最高である。 もちろん研究内容が面白いというのが大前提であり、つまらない内容を印象に残しても意味はない。
競争的資金の申請書
同様である。 差別化を意識する。 特に学振DCなどは学振本なるものが存在し、多くの人が参照するのだから、なおさら差別化を意識すべき。 論文はその限りではない。
栄養源
アンパンは大手メーカーのものでなければ100円未満5個セットが存在する。 手が汚れず、一口で食べれて、腹持ちもそこそこ。 串団子も100円程度で腹持ちが良い。 カップラーメンは駄目である。
疑似アルコール
ほどよく酔いながら好きなことに従事するのが好きなので、ワインやウイスキーを飲みながら執筆する体験は娯楽である。 ただ、疲労が深いときにこれを実行すると、翌日のパフォーマンスが悪化することが分かり、博士課程の大半は疲労が深かったため、疑似アルコールを追求することになった。 最初はノンアルコールビールを使っていたが、その後、割材の強炭酸1Lで代替できることが判明した。
余計なもの
博士課程のうち1年以上はスマートフォンをもっていなかった。 代わりに使っていたのがニッチフォンといういわゆるガラケーで、電話ができる。 コロナ情勢で出歩かなくなって久しく、スマホの不在による不都合はあまりなかった。 余計なものに気が向かない生活だった。
鶏と卵、富める者はますます富み
という構造がある。 最初に出くわす鶏は学振DCの採用であり、捕まえるに越したことはない。 たとえば学振をもっている人は、個人の予算が年間100万円ほどつき、その上月20万円の生活援助が入り、したがって研究に集中しやすい環境に身を置くことになり、副次的に論文を書きやすくなり、論文があるから研究ヴィジョンが明確になりやすくなり、研究ビジョンがあるから他の予算もとりやすくなり、研究ヴィジョンと予算があるからますます業績を積めるようになり、論文の数を打つことになるから表彰されるチャンスも増え、それらが積み重なって次のポジションを得やすくなったりする。 学振に限らず同種の話は多く、お金が入ったら業績を積みやすくなり、その逆もしかりで、加えて海外出張に行くなどして面白い経験を積みやすくなる。 ただ、博士課程を支援する制度は増え続けており、裾の尾は広がっていて、富めるものが富む構造というよりは、才能と努力に富むものが富めるように、機会が分配されるようになってきたのかもしれない。
精神安定剤
良い業績と良い金銭待遇。 どちらが欠けても駄目になっていたと思う。
東工大
合併して名前が変わるらしい。 博士号を取得した大学の名前がなくなるのは妙な気分だが、2014年の学部入学時から東工大も随分と変わった。 学院という区分が導入され、リベラル・アーツが幅を利かせるようになり、Taki Plazaなる看板建物ができたりした。 入学前に抱いていた理工系オタクの聖地という印象からはもう随分とずれていて、誇るほど誇りもないが、それでも9年は在籍したので、昨今の改革に対して、無関係の外野が物知り顔で物申すことに違和感をもつ程度には愛校心がある。
桜を見る人
目黒の家から歩いてすぐに目黒川があり、3月終わりには花見客で賑わう。 4月も中旬になると人はほとんどいなくなる。 研究者とは木を育てる人のようなものらしい。 人がいないシーズンでも誰かが手入れをする必要がある。
目黒駅
とんかつ四天王が存在する。 カレー屋もたくさんあり、しのぎを削っている。
味覚
苛ついているときに口の奥を噛む癖があり、修士課程の頃から5年ほど口内炎と付き合っている。 血の味がするときも多い。
お勧めの本2
研究を進めるにあたって役に立ちそうなブログ記事は“Awesome CS-Ja PhD Life”にまとまっている。 書籍で人に勧められるものをいくつかピックアップする。 「ノンデザイナーズ・デザインブック」はデザインの大原則をまとめた偉大な本であり、プレゼンやポスターを作る前に一度目を通しておくと良い。 論文執筆に関して一冊読むのであれば“Science Research Writing for Non-Native Speakers of English”を推薦する。 “The Elements of Style”は英語の書き方に関しての名著である。 “Fundamentals of Data Visualization”はデータ可視化に纏わる良書で、グラフ作成時などで活躍の場面が多い。 「いかにして問題をとくか」は古典だが、未知の問題に出会ったときにどう対処するべきかの指針を与えてくれる名著である。 「研究者としてうまくやっていくには」はキャリアを考える上で参考になる。 プレゼンについての良書にはまだ出会えていない。
斜に構える人
手を動かさない人たちは無視して良い。 あなたの時間はとても価値があります。
だんだんと人が消えていく
学部の頃からハッカソンなどで色々なコミュニティに出入りしており、イケイケな感じで自分から事を起こす人たち、または起こしたい人たちをたくさん見てきた。 そういった人たちが今もイケイケな感じで頑張っているかというと、残念ながら9割以上は消えている。 消えた人たちは、典型的には、フェイスブックやインスタグラムで突発的な結婚報告や子供の誕生報告をしたりなどする。 この年齢にもなると頑張り続ける人はとても少なくなり、友達がとても減ったような錯覚を覚える。 ただ、青い服の友人と議論した結果、いつかのタイミングで残っている人同士が繋がり、友達が増えるフェーズが来るのだという。 そのフェーズが早く来ることを願う。
だんだんと趣味が消えていく
年々研究にかける時間が増えていき、余暇がなくなっていく。 原因は脅迫観念で、ただでさえ凡庸なのだから、もっと研究に時間をかけなければ、何も生み出せないのではないかという類のものである。 この強迫観念は年を重ねるごとに増加する。 その結果、趣味と呼べるものは読書とカメラを除いて死滅した。 これらの例外も忙しいシーズンは手が出ることはなく、料理も最低限しかしなくなった。
だんだんと楽しみが消えていく
追い込まれているシーズンだと一切他のものが手につかず、就寝が唯一の楽しみになる。
だんだんと査読は増えていく
まだ断るレベルではない。 査読に研究を育ててもらった自覚があり、謝辞には匿名査読者を入れることが多い。 査読者としては自分もそのような存在でありたい。
一人
製本した博論を手にした最初の感想が"軽い"だった。 3年間相当な時間をかけた成果物は軽い。 本の中にはそこそこ良い成果が詰まっており、分野のチュートリアルで紹介されるワークがあれば、トップカンファレンスで受賞したワークがあり、文字通り人を仰天させたワークもある。 それでも軽い。 “重く"するには一人で頑張っていても無理で、ゲームのやり方を変える必要がある。 1冊9000円。
人を褒めること
訓練が必要だが有用な技術である。 指導教員は洒落た推薦書を書いてくれるのだが、生成技術をどの時期に身に着けたのかは謎である。
指導教員
学部生3年生の終わり頃、なんとなく分散系を考えたい、もう少しカッチリしたコンピュータ・サイエンスを勉強したい、少しロボティクスも絡めたいと思って、今の指導教員を訪ね、1時間ほど2人で話をした。 当時は先生が東工大で研究室を始めてまだ1年目で、1期生が2人所属しているだけの小さなラボだった。 そこから先生の指導下で卒論を書き、修論を書き、博論を書いて、ラボからは最初の博士号取得者になった。 先生とは研究分野がずれており、それがプラスに働いたこともあればマイナスの面もある。 プラスの面は、分野がずれている人同士の観点が交じるので、最終的に独創的なワークに仕上がること。 マイナスの面は、自分の方のドメイン知識はゼロから構築する必要があったこと。 今では良い研究を継続的にできていると思うが、お互い随分と試行錯誤を重ねたと思う。 6年間大迷惑をかけてばかりである。 どうやって恩返しができるのかはわからない。
単著
博士3年生の夏、単著を書いてみた。 その時はパリに住んでいて、ソルボンヌ大での共同研究の他に余力があった。 ある日ベッドに寝転んでいたら良いアイデアを思いつき、その日は考えながら寝落ちした。 翌日、セーヌ川の岸辺に座りながらアイデアを精査したところ、強力な論文に仕立てられる算段がたった。 ちょうど良いタイミングでAAAIの締切りがあったものだから、異国の地で腕試しをしようと考えた。 当時、もう博士課程のノルマはクリアしており、金銭的なメリットはなく、次のポジションは半ば確定しており、他にも論文を書いていたので、対外的なモチベーションはなかった。 逆に、内的な動機だけで、一人で論文を書けるかを知るには良い機会であった。 これができるのであればこの先も研究を続けていけると思ったのである。 昔、同じように大仕事を一人で終えた青い服の友人が「一人でやっていけるか知りたかった」と言っていた。 今ではその気持ちがよく分かる。 なお、その論文は私の代表作になりそうである。
カフェイン
ルクセンブルク人は平均して珈琲を1日8杯飲むと聞いた。 そこまでは大丈夫だということだ。
名前
物語のテンプレで、普段は人の名前を覚えないキャラに主人公が名前を尋ねられるシーンが存在する。 現実でも似たような構造は存在し、たいていの人は人の名前を覚えられず、「ふーん面白いじゃん」となる人間の名前だけを覚えている。 学会等でそのような場面に遭遇することがある。
苦しい状態をデフォルトに選ぶこと
大多数の人は楽しみながら物事を進めたいと考えているが、それは余裕があるからなせる姿勢である。 盲目的に本気で取組んでいる間は、ほとんどの場面で苦しい状態が続く。 そのような状況を楽しみながら進める人は存在するが、それは才能であり、私にはその才能がない。 だから選択しなければならない。 部外者は「肩の力を抜いて」と言う。 でもそれは、選べなかった人たちが言っている。
バランス
人間は見たこと聞いたことから考えるので、日々のインプットは大切である。 博士学生にとってのインプットは、論文を読むことが主体であり、息を吸うように読む人もいる。 反して、過多なインプットは毒だと考える人もいる。 自分の将来の研究が見ず知らずの他人に"引きずられて"しまい、二番煎じの仕事に従事してしまうというのが理由だ。 極限では、わからなくなったら論文を探して読めば良いというスタンスも存在する。 ただ、この方法では最先端の技術についていくことができない。 これはコンピュータ・サイエンスなど流れの早い分野において致命的である。 何事もバランスが肝要である。
ChatGPT
すごいツールである。 研究分野がずれていて本当に良かった。
すごい技術は海の向こうからやってくる風潮
消していきましょう、潰していきましょう、殺していきましょう。 どうやればいいか検討もつかないけど、他人事ではない。
終わり方
2022年9月末にパリから東京に帰ってきて、それから博論を書き始め、12月初日に初稿を提出し、その月は他の論文と格闘し、2023年1月に公聴会を含む審査のプレゼンを2回やり、2月の2週間をアメリカで過ごし、3月初日に最終版を提出して、それからは会いたい人たちに会って、6年過ごした大学の居室と3年過ごした目黒の家を片付けて、3月末に学位授与式があって博士号をとった。 博論提出後はあまり喜べず感慨もほどほどで、それより博論という巨大な敵を倒して気落ちしていて、住み慣れた居場所がなくなる喪失感も大きかった。 それでも卒業式はまあまあ楽しく、久しぶりな人たちやオンラインでの知人に対面できたりして、総じて良かったと思えた。
嬉しい時
研究が良い論文に仕上がった時。 思い入れのある論文が採択された時。 研究に興味をもってくれた知らない人から連絡が来た時。 研究の質が上がっていることを実感した時。 技術の幅が広がっていることを実感した時。 知識を作っていることを実感した時。
博士課程を人に勧められるか
一般論としては勧められる。 適正があり、指導教員と相性が良く、戦略的に頑張ることができるのであれば、学位取得は難しいゲームではない。 金銭面はインターンも含めて年々改善されており、情報系であれば費用の工面は楽観視できると思う。 博士課程は探求に訓練と正当性を与える貴重な機会であり、副次的にキャリアを強くする可能性がある。 反して、個人の体験から語るのであれば、気軽には勧められない。 仮に、親しい人が検討するのであれば反対する気がする。 自分が経験した時間は、時勢と性格が相まって、想像の斜め上を行く孤独な道のりだったからである。
これまでの経験が現在進行系の体験に交差するようになる
ほどほどの時間を生きてきたので、過去の縁から思いがけない人たちに再会することが増えてきた。 これは嬉しい誤算である。 時間が空いたとしても、分野が変わったとしても、頑張っている人同士はまた会えるのだ。